Masuk日曜日。
私はクローゼットの前で立ち尽くしていた。 服が決まらない。 正確には。 何を着ればいいのか分からなかった。 以前ならもっと簡単だった。 悠斗が好きそうな服。 可愛いと思ってもらえそうな服。 そんな基準で選んでいた。 でも今は違う。 私はハンガーに掛かった服を見つめながら考える。 私は何を着たいんだろう。 その問いに、すぐ答えは出なかった。 結局、淡いベージュのワンピースを選んだ。 無難だった。 でも嫌いじゃない。 鏡を見る。 少しだけ◆ 悠斗は、スマホの画面を伏せた。 真琴から郵便物が届いたのは、昨日のことだった。 封筒には、丁寧な字で自分の名前と住所が書かれていた。 中には、こちらに紛れていた郵便物が一通。 それだけ。 メモはなかった。 余計な言葉もなかった。 必要なものを、必要な距離で送ってくれた。 それが少し寂しくて、でも同時にありがたかった。 悠斗は届いた郵便物を処理し、封筒を捨てられずにテーブルの端に置いていた。 真琴の字。 長く一緒にいたから、見慣れているはずだった。 けれど今は、それがもう自分の日常の中にないものとして目に入る。 悠斗は封筒を裏返した。 差出人の住所は、新しいものだった。 真琴の新しい住所。 そこに、真琴の生活がある。 自分の知らない部屋。 自分の知らない窓。 自分の知らない食卓。 悠斗はその住所を見つめて、胸の奥に鈍い痛みを感じた。 でも、画面を開いて何かを送ることはしなかった。 ありがとうは、昨日送った。 それで終わっている。◇ 夕飯は、冷凍していたご飯と味噌汁、焼いた鶏肉だった。 鶏肉は少し固くなった。 味噌汁は、前より少しまともになった気がする。 豆腐とわかめ。 味噌の量も、ようやく分かってきた。 悠斗は一人で食卓に座った。 向かいの席には何も置かないようにしている。 以前はそこに、真琴の席の気配を勝手に残していた。 半券を置きかけたこともある。 でも今は、できるだけ置かない。 そこを真琴の不在の飾りにしないために。 食べながら、スマホが震えた。 高瀬からだった。『味噌汁作った?』 写真つきのメッセージ。 高
森下さんが来ることが決まってから、私は少しそわそわしていた。 来週の土曜日。 午後。 お菓子は森下さんが持ってきてくれるらしい。 私はお茶を用意すればいい。 それだけのことなのに、頭の中では部屋の片づけリストが勝手に増えていく。 段ボールを全部潰す。 床を拭く。 台所を磨く。 洗面所も見られるかもしれない。 トイレも掃除しなければ。 クッションカバーは洗うべきか。 そこまで考えて、私は丸いテーブルに突っ伏した。「……やりすぎ」 誰もいない部屋で呟く。 森下さんは、ホテルのチェック係ではない。 花瓶監査見習いではあるかもしれないけれど、それも冗談だ。 私は部屋を見回した。 薄い青のカーテン。 窓辺のクラゲとミモザ。 水色の花瓶。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 壁際に残った段ボールが二つ。 床に積んだ本が少し。 完璧ではない。 でも、暮らしている部屋だ。 森下さんに見せたいと思ったのは、この部屋が完璧になったからではない。 私がここで暮らしていることを、見てもらいたいと思ったからだ。◇ 私はノートを開いて、やることを書き出した。『床に出ている本を箱か棚へ』『テーブルを拭く』『お茶を買う』『無理に全部やらない』 最後の一行に、丸をつける。 無理に全部やらない。 これが一番大事かもしれない。 以前の私なら、人を呼ぶ前に完璧にしようとした。 料理も多めに用意して、相手の好き嫌いを気にして、掃除も念入りにして、当日には疲れた顔で笑っていたかもしれない。 楽しいはずの来客を、自分で義務に変えていた。 でも、今回はそうしたくない。
花瓶を買ってから、朝の景色が少し変わった。 目が覚めてカーテンを開ける。 薄い青の布が左右に寄る。 窓辺に置いた水色の花瓶に、朝の光が当たる。 ミモザは少しずつ小さく乾き始めていたけれど、それでも黄色い花は部屋の中でやわらかく浮かんでいた。 クラゲのキーホルダーは、その隣で静かに揺れている。 水色と黄色。 過去と今日。 そう言葉にすると少し大げさだけれど、私の部屋にはその両方が並んでいた。 私はキッチンで水を汲み、花瓶の水を替える。 茎の先を少し切る。 花屋さんに言われたことを思い出しながら、丁寧に戻す。 前なら、こういう手間を面倒だと思ったかもしれない。 花を飾るなら、ちゃんと世話をしなければいけない。 できないなら買わない方がいい。 そんなふうに考えて、始める前から自分を止めていた。 でも今は、少し違う。 できる範囲でいい。 花がしおれたら、それはそれで終わりまで見ればいい。 完璧に保つことだけが、大切にすることではないのかもしれない。◇ 朝食はトーストと目玉焼きにした。 料理本に、卵は弱火で焼くと失敗しにくいと書いてあったので試してみる。 黄身は少し端に寄った。 白身もきれいな丸にはならなかった。 それでも、前より焦げていない。 白い器にヨーグルトを入れ、グレーのマグカップに紅茶を注ぐ。 丸いテーブルに並べると、ちゃんと一人分の朝食に見えた。 向かいの椅子には、昨日読みかけのエッセイが置いてある。 空席ではなく、途中の本の場所。 私は「いただきます」と手を合わせた。 目玉焼きに少し醤油をかける。 食べながら、窓辺の花瓶を見る。 朝の光の中では、夜よりも水色が淡く見える。 この部屋に似合う。 そう思う。
部屋に帰ると、私はまず花瓶を紙袋から出した。 薄い水色の小さな花瓶。 店で見た時より、部屋の光の中では少し柔らかく見える。 私は窓辺に置いてみた。 薄い青のカーテンの前。 クラゲのキーホルダーの隣。 そこに置くと、花瓶は思ったより自然に馴染んだ。「……いい」 小さく呟く。 誰かに見せる前に、まず自分でそう思えた。 グラスに挿していたミモザをそっと抜き、茎を少し切る。 水を入れた花瓶に挿すと、黄色い小さな花がふわりと広がった。 水色の花瓶と、黄色い花。 薄い青のカーテン。 淡い水色のクラゲ。 窓辺に並ぶそれらを見ていると、胸の奥が静かに満たされていく。 完璧な部屋ではない。 でも、私が選んだものが少しずつ増えている。 そのことが、何より嬉しかった。 スマホを手に取り、写真を撮った。 角度を変えて、もう一枚。 花瓶がよく見えるように、クラゲが少しだけ写るように。 撮った写真を見て、私は少し迷った。 佐伯さんに送る。 森下さんにも送る。 千尋にも、きっと見せたい。 でも、その前に、私は写真をしばらく自分だけで眺めた。 誰かに褒めてもらう前から、私はこれが好きだと思っている。 その順番を、間違えたくなかった。 しばらくしてから、まず佐伯さんに送った。『花瓶監査お願いします』 すぐに既読がついた。『合格』 短い。 あまりにも短い。 続けてもう一通来る。『ただし花瓶の下に何か敷くとさらに良し』 私は笑った。『厳しい』『監査なので』 次に森下さんへ送る。『花瓶買いました』 森下さんからは、少し長めの返事が来た。
朝倉さんは、手に持っていた紙の束を少し上げた。「次の展示の打ち合わせで来ていました」「あ、これ」 私は掲示板のチラシを指した。「さっき見ました」「もう貼ってありましたか」「はい。来月なんですね」「はい。今度は器の作家さんと一緒にやる展示です」「器と写真」「暮らしの中の道具と、それが置かれている時間みたいなものを撮れたらと思っていて」 朝倉さんの言葉を聞きながら、私は紙袋を持つ手に少し力が入った。 花瓶。 今日買ったばかりの、薄い水色の花瓶。 暮らしの中の道具。 その言葉が、あまりにも今の私の手元と重なったから。「藤崎さんは、お買い物ですか?」「はい。花瓶を買ってきました」 言ってから、少しだけ照れた。 わざわざ話すほどのことではないかもしれない。 でも、朝倉さんは興味深そうに目を細めた。「いいですね」「まだ花瓶を持っていなくて。グラスに花を挿していたら、職場の先輩に花瓶を買いなって言われて」「素敵な先輩ですね」「花瓶監査するそうです」「監査」 朝倉さんが小さく笑った。 その笑い方が少しだけ普通の人らしくて、私は肩の力が抜けた。「厳しそうですね」「たぶん厳しいです」「どんな花瓶を選んだんですか」「薄い水色の、小さいものです。カーテンの色に合いそうで」「カーテン」「はい。薄い青のカーテンをつけたんです」 そこまで話して、私は少し驚いた。 自分の部屋の話を、自然にしている。 前なら、こんなふうに自分の選んだものを人に話すことに、もっと緊張していた気がする。 でも朝倉さんは、私の話を大げさに受け止めるでもなく、軽く流すでもなく、ただ聞いてくれた。「その花瓶、似合いそうですね。その部屋に
その週の土曜日、私は花瓶を探しに出かけた。 朝から洗濯をして、部屋に掃除機をかけて、ミモザの水を替えた。 花は少し元気をなくしていたけれど、まだ黄色い小さな粒が窓辺に残っている。 透明なグラスに挿したそれを見ながら、私は佐伯さんの言葉を思い出した。 花瓶を買いな。 花瓶監査するから。 監査という言葉は少し物騒なのに、思い出すと笑ってしまう。 でも、佐伯さんの言う通りだと思った。 花を買ったのなら、それを置く場所を少し整えてもいい。 完璧な部屋を作るためではなく、今の生活に似合うものをひとつ増やすために。 私はスマホで近所の雑貨店を調べた。 駅の反対側に、小さな生活道具の店があるらしい。 口コミには、器とガラス小物が多いと書かれている。 私はバッグに財布とスマホと、小さなエコバッグを入れた。 誰かと待ち合わせているわけではない。 それでも、今日はちゃんと予定がある。 私の部屋に合う花瓶を探す日。◇◇◇◇ 駅の反対側へ歩くのは初めてだった。 いつもの書店や喫茶店とは違う方向。 細い道を抜けると、古いマンションの一階に小さな店があった。 木の看板に、控えめな文字で店名が書かれている。 中に入ると、陶器の皿やカップ、ガラスの小瓶、小さな布ものが並んでいた。 大きな店ではない。 でも、ひとつひとつの置き方が丁寧で、見るだけで少し楽しい。 私は棚の前に立ち、花瓶を探した。 丸いもの。 細長いもの。 透明なもの。 白い陶器のもの。 淡い緑色の小さな瓶。 どれも素敵で、逆に迷ってしまう。 前なら、無難なものを選んだかもしれない。 どんな部屋にも合うもの。 失敗しないもの。 誰かに変だと言われないもの。 でも今
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』 送信者は、『秋山 美咲』。 知らない名前だった。 でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。 私のスマホだ。 私はゆっくり画面を開く。 どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』
翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。